そんなこと考えても意味がない、
そんなこと考えても無駄なのでは、
生まれたから悩んでもしょうがない、
という声が聞こえてきそうです。
そんなこと考える人は少ないのかもしれません。
そんなこと考えても仕方ないのかもしれません。
だけど、なぜ生まれたのでしょうか?
わたしは、いつも疑問に思っていました。
そんなことを考えた経験がある人は
少なからずいるはずです。
いろいろな本を探しても、
はっきりとした答えは書いてありません。
やたら難しい言葉を使って、
何が本質なのかわからないもの、
正確に説明していないものもあります。
また、何かをやる使命があるから、
何かを学ぶためだ、とか
書いてある本はありました。
でも、違います。
なぜ生まれたか?の答えは、
とても簡単なことでした。
それは、過去の行為(カルマ)を清算するためです。
過去において播いた種を刈り取るためです。
過去とはいつのことですか?
過去とは今より前の期間です。
清算ってなんですか?
清算とは、今までやってきた行為の
果報を受けるということです。
果報ってなんですか?
果報とはやってきたことの結果です。
結果ってなんですか?
結果とは、色々なことを経験することです。
では、生まれた理由は、
色々なことを経験するためですか?
はい、その通りです。
過去の行為の清算として、
色々なことを経験するために、
その条件(蒔いた種が実を結ぶ条件)が
満たされたので、
この世に生まれたのです。
なんと、驚くべきことに、私たち自分が
母親を選んで生まれたのです(注)。
注
山崎信定訳
初版「原典訳 チベットの死者の書」筑摩書房
解説p198の記載から引用
”ティモシーが言った。「可哀そうなやつだ。生まれ変わらないように気をつけるんだな。でも生まれ変わらなきゃならないとしたら、せいぜい良い胎(はら)を見つけるんだぜ」”