神とは?

1.神とは人間界よりも上の世界に存在する生命体である

神とは、人間界よりも上の世界の徳の高い生命体をいう。欲六界の神、色界の神、無色界の神が存在する。神は人間界よりも上の世界である天界の住人ということになる。しかし、例えば、欲六界の天界に住む神は、私たち人間はもとより、餓鬼や地獄の住人と同様に身体を持つ生命体であることに変わりない。そして、この欲六界の天界はレベルに合わせて六つに分かれている。功徳の高さの違いによって住む天界が違っている。下から順に第一天界から第六天界に別れている。欲六界は欲を持つ魂の世界であるから欲六界の天界に住む神も欲をもっている。また、欲の世界での功徳の量が多いから天界にいるだけなので、天界で長く暮らし功徳が無くなると欲六界の下の世界に生まれ変わる(輪廻転生する)。この欲六界の上に存在する色界の天界、更にその上の無色界の天界の神は欲を脱却して、より深い意識を中心に活動し、身体を持たない神である。

2.人間よりも上の阿修羅界の阿修羅

ここで、人間界よりも高いのであるから阿修羅界に住む阿修羅はどうなのかを考えてみよう。阿修羅は天界の神々と異なり闘争を好むため人間よりも低いと言われることもあるが、少なくとも人間よりは徳があり、かつ、仏教では仏法の守護神と言われていること(注1)、その昔、三十三天界の神であったが、酒を飲まされて、阿修羅界に落とされたという話からも人間よりは高い神(非天無酒神、注1)と言える。

3.徳とは

徳とは良い行為の結果蓄えられる要素である。神は徳の高い(多い)魂と言える。悪業を減らし、善業を蓄えることが徳を高くする方法である。徳が高ければ欲六界なら神として天界に生まれ変わることができる。徳が高いとサットヴァ(純質)優位となる。サットヴァは、喜び、照らす、などの性質を示す。ただ、サットヴァは三毒(三グナ、(注2))の一つであるので、ラジャス(激質)、タマス(翳質)から脱却して最後にサットヴァ(純質)だけを残し、最終的にこのサットヴァから脱却しないと真我を実現することはできない。

注1 広辞苑第六版
注2 平成7年ヴェーダーンタ文庫発行「バガヴァット・ギータ」P166

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真我(アートマン)と世界との関係

1.真我

真我(アートマン)とは、インド哲学の根本原理の一つであり、真実の自己である。エゴである自我とは全く異なる。主体そのものであるため、真我を実現すると表現される(self realizaition)。

2.真我と世界

真我が現れ出るとき世界は消え、世界が現れるとき真我は消える(ラマナ・マハルシ)。世界がマーヤと言われるのもそのためである。

世界は、真我の光がグナというフィルムによって映し出された映画のようなものかもしれない。「世界」は「全て」とも言い替えられる。

3.ラマナ・マハルシ

ラマナ・マハルシ(1879-1950)は、「私は誰か?」という問いかけを行う「真我の探求」という方法を説いたジュニアーナヨーガの聖者である。

ラマナ・マハルシの道場は、インド、ティルヴァンナーマライ、アルナーチャラ山の麓にあり、ラマナ・マハルシ在命中にヨガナンダも訪れている。

アルナーチャラはシバ神そのものであるとされている。

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全ては心の表れである

1.心で思うことが全ての前提

すでに述べたように、私たちが行動し、
話し、心に思うことは、
私たちの心の奥にある
データベース(カルマの法則、注2参照)
に蓄積されます。

行動することや、話すことは、
前提として心で何かを思ってから
行われると考えれば、
全ての行為は心で思うことが
始まりと考えられます。

2.心の思いが現象化する

そして、心で思ったこと、
つまり、心に蓄積されたデータは、
ちょうど蒔いた種が一定の条件で
芽を出してやがて実をつけるように、
条件が揃うと現象化します。

現象化するということは、
できごととなって
現れるということを意味します。

3.環境とは現象化したもの

できごと、というと、
何か悪いこととか、
良いことと、
と思いがちですが、
それだけではありません。

自分の仕事、家族、交友関係、恋愛など
様々なものが含まれます。

一言でいうと私たちの周りの環境なのです。

つまり、私たちが心で思うことは、
私たちを取りまき、
それと相互作用を及ぼし合うものとしての
外界を作るということです。

4.全ては心の現れ

言い換えれば、
私たちを取りまき
相互作用を及ぼすものとしての外界、
つまり全ては、
心の中にあるものが現れ出たもの
ということです。

全ては心の現れなのです。

5.全ては自分の心が創ったもの

全ての現象は
自分が原因であるということです。

でも、自然物は違いますよね、
という声が聞こえてきそうです。

はい、そのとおりです。

自然物は神(創造主)の心の現れです。

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オーム・マニ・ペメ・フーム

「 オーム・マニ・ペメ・フーム」は観音菩薩のマントラです(注)。チベットでマニ車を回しならが唱えられています。六道(欲六界)を輪廻するものたちを救済しようとする観音菩薩の祈願をあらわしています。菩薩の心構えがなんたるかを印象的に示しています。

マントラとは、秘密の言葉です。例えば、人混みの中で背後から特定の人の名を呼ぶと呼ばれた人だけが反応して振り返るように、その言葉自体に力があり、唱えるだけで特定の効果が得られるものです。

菩薩とは悟りを求めて修行する人のことをいい、四無量心の実践者です。四無量心の完成者は如来と言われます。

これを唱えることで、欲六界の住人に対して欲六界に生まれる条件を滅する効果があります。

1.オーム

「オーム」は全ての仏陀たちの身体を象徴し、天界に神として生まれる条件を浄化する力があります。
天界の住人である神は六道の中では最高の存在ですが、自分の幸福な状態に満ち足りていて、本当の心の解放をもたらす道をかえって自分に閉ざしてしまっています。だから「オーム」音でその条件を焼き滅ぼさなければならないということです。

2.マニ

「マ」は、嫉妬という阿修羅界に
阿修羅として生まれる条件を滅し、
「ニ」は人間界に人間として
生まれる条件を滅します。

3.ペメ

「ペ」は動物界に動物として
生まれる条件を滅し、
「メ」は餓鬼界に餓鬼として
生まれる条件を滅します。

4.フーム

「フーム」は地獄界に
地獄の住人として
生まれる条件を滅します。


このページの記載は、
1981年平河出版社発行、
ラマ・ケンツ・サンポ+中澤新一共著
「虹の階梯、チベット密教の瞑想修行」
p41を参照しました。

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思いは実現する

思ったことは実現する、なんてよく言いますよね。少し前までは、そんな情報だけでとても貴重でした。ジェームズ・アレン、ナポレオン・ヒル、ジョセフ・マーフィーなどの成功哲学では基本となる考え方です。ところがこの頃は、思っただけでは実現はしない、というような内容の情報をインターネットで見かけますね。実際はどうなんでしょう?

1.思うということ

何らかの行為をすると、そのデータは心の奥にあるデータベース( 心素)に記録され、条件が満たされると自分に返ってくる、というのがカルマの法則でした。行為とは身(行動すること)、口(話すこと)意(思うこと)ですから、単に何かを思うだけで、そのデータはデータベースに記録されます。

そして、条件が満たされると、潜在意識を経て顕在意識の世界に現れる、つまり現象化するということです。だらか、思うということは現象化するための手段と言えます。

簡単な例で説明しましょう。

テレビがない時代に、テレビを考えた人がいるとしましょう。それは、その人の頭の中で、テレビというものがイメージされたことになります。イメージですから潜在意識の世界に作られたといってもいいでしょう。そして、その人は設計図を描き、そのイメージは形になり、最終的には実際に工場で作られ、販売されることになります。

そんなことは普通当たり前のことですよね。でもよく考えてください。つまり、心で思ったことが現実に物になったのです。それって、思ったことが実現するということですよね。ここでも、カルマの法則が働いているのです。思ったこと全てが実現するわけではないにしても、この世の中にある全ての人工物は人の思いが現実化したものなのです。そう考えると驚きですよね。

2.思いを実現させるには

・確信を持つこと

第一に自分自身でそれが実現することに確信が持てないうちは無理です。少しでも疑いがあるうちは、実現しないでしょう。その疑い、つまり、実現できないだろうという考えが、潜在意識に植えつけられるからです。

・願わないこと

願うということは、今はそうではない、ということを潜在意識に植え付けることになるからです。だから、今はそうではない、という情報が植え付けられて、願い通りにはならないのです。努力をした場合は、努力したのだから実現できると本人が確信するから実現するのかもしれませんね。

・功徳を積むこと

第二に、データベースに植え付けられたデータは、ちょうどフィルムに光が照射されて映像ができるように、光によって潜在意識の世界に投影され、更に潜在意識から顕在意識の世界に投影されることで現象化します。データベースのデータも、光がなければ映像を映し出すことはできません。

ここで光とは功徳を意味しています。
功徳とは、良い果報をもたらす善行のことです。
功徳がなければ実現することはできません。

テレビを考えた人の場合を考えて見ましょう。その人は世の中のためになると思いテレビを考えました。この動機がとても重要です。そして、その人は、エネルギーを注いで努力しました。世のため人のためと思って。様々な改良を加え、コストを削減する努力をし、満足行くような物にするため、日々悩み考えて作り上げました。これによって、この人はテレビを作るにあたって功徳を積んだのです。また、これで実現すると確信したのです。そして、その功徳と確信ゆえに、実際に製品が出来上がったのです。

だから、思いだけでは実現しない場合が多いのは納得できます。

例えば、ジェームズ・アレンのような人がどのような生活を送っていたかは、本の全体を読めば、自ずとわかることです。彼は、良い意味でとても宗教的な生活をしていました。だから思考は彼の生活を変えていったのです。それだけで精神的な功徳を積んでいたのです。

3.思いを実現させ続けるためには

アメリカの富豪が多くの寄付をして功徳を積み続けていることはよく知られています。それだからこそ、この世界で常に事業やお金に恵まれるのです。ただ、功徳には2種あって、ここで説明したのは現世的な功徳であることに注意しなければなりません。ちなみに、ジェームズ・アレンは、自分の著書のイギリス以外での著作権を放棄していて、更に100年にも渡って本が売れたにもかかわらず、その経済的恩恵はほとんど受けていないです。このことは、彼が普通の人ではなかったと言われる理由の一つかもしれません。周りの人が彼のことを「謎の人物」として理解できなかったのは当然と言えます。彼は精神的な功徳を積んでいたからです。もちろん、本が売れたのに、その恩恵を受け取っていないので、現世的な功徳も積んでいます。

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人のふり見て我ふり直せ

人の好き嫌いって、誰でも少しはあると思います。こういう人は嫌いだとか、こういう人は好きだとか。でも、なぜなのでしょうか?好きな場合はさておいて、嫌いな人がいる場合を考えてみましょう。

1.嫌いだと思う理由

結論から言います。嫌いなのは自分の中に同じ要素があるからです。自分の中に同じ要素を持っていない場合には、好きとか嫌いとかの判断ができないからです。例えば、バナナがどんなものか知らない人がいるとします。その人は、バナナを見て何か感じますか?好きとか嫌いとか判断する以前に、何かわかりませんよね。つまり、自分のなかに何らかのデータがなければ判断ができないということです。相手を嫌いだと思うことは、他ならぬ、あなた自身がよく知っているそういう要素を持っているからなのです。自分が他人をどう見ているかを考えると、自己分析ができます。

2.人のふり見て我がふり直せ

相手に嫌な面があるため、相手に嫌悪の感情を持つことは、来世は、で説明したように、地獄へ生まれるカルマです。すでに説明したように、相手の嫌な面がわかるということ自体、自分自身が同じ要素(嫌悪という心の働き)を持っているということです。また、そのとき更に相手に対して嫌悪の感情を持つと、新たに地獄へ生まれるデータを増やすことになります。「人のふり見て我がふり直せ」とは、新たなカルマを積まないで、さらに、今後同じ間違いをしないように注意することを教えています。

3.我がふり直すにはどうする

まず、対象となる相手を見たら、相手に嫌悪の感情を抱くことなく、それは自分の中にあるのだと思うことです。それにより、相手に対して悪感情を抱かなくなります。むしろ、それを教えてくれて感謝するくらいになったら最高です。そして、その反省から、今後そういう心の働きを持たないように努力します。そうすると、相手に対しての見方が変わります。実は、深い反省は自分のデータベースのデータを無力化してしまうことさえあります。そして、相手に対する見方が変わると、自然と相手との関係も変わります。例えば、相手からあなたへの接し方が変わったり、あなたがと相手が同じ環境にいなくなるといったことです。

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縁とはなにか

1.縁とは過去の関わり合いである

縁とは、過去において、何らかの関わり合いがあったことをいいます。その関わり合った人が(人だけではない)が、一定の条件を満たしたときに、また同じ世界で出会うことになったり、関わることになります。なぜなら、過去において、身、口、意の三つの行為をお互いに相手に対してした結果、それを精算するために同じ環境で出会う必要が生じたからです。

2.縁がなければ出会わない

縁がなければ、絶対に出会うことはないのです。過去においてどんな縁があったのかはわかりません。過去に殺し合っていた魂が、この世界で仲のいい夫婦になったり、逆の場合もあります。過去や現在の関わり合いがどうであれ、縁を大切にするべきです。この世界で出会ったのだから、カルマを清算するいい機会です。相手のことをよく考え、相手に対して自分がした行為の清算をすることが大切なのです。相手から良くしてもらったら感謝し、相手から嫌なことをされたら我慢する、できれば感謝するということです。これによって、悪い縁がなくなります。相手に対して常に良い行いをすれば、それはとても良い縁となります。

3.縁がなくなったらどうなる

縁がなくなったらどうなるか、つまり、過去の関わり合いの清算が終わったらどうなるかというと、その人との関わり合いがなくなってゆくということです。当然ですね。清算すべきものがないのですから、もはやその人との関わり合う理由がないからです。ですから、過去生の縁で、今生で敵視する関係にあった場合は、じっと我慢することで、あなたが過去生においてなした相手を憎む行為の結果を精算することができるのです。そうすると、自然にその相手とあなたは別の環境に移り、関わり合いにならなくてもよくなります。例えば、あなたや相手が別の部署に異動したり、退職したり、引っ越したりします。この場合には環境の変化することでのダメージはほとんどありません。

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なしたことは返ってくる
(米国の場合)

なぜ、アメリカは移民、銃で悩むのか?

とても簡単な理由です。

(1)1534年に開始した南北アメリカ大陸の探検と開拓
(2)銃を使った先住民に対す領土略奪と虐殺

この理由で米国は移民と銃で悩むのです。
銃によって先住民を虐殺し、
移住したからです。

いつまで続くのかというと、

自分たちがアメリカに移住した人数分だけ
移民を受け入れまで移民は増え続ける。

先住民を銃によって殺害した人数と同じだけ
銃により人が死ぬまで問題は続く。

何をしても無駄です。

国がなしたことは、その国に返ってくる。
他国に苦しみを与えれば、
苦しみは自国に返ってきます。

蒔いた種は刈り取らなければならない。

悪い種を蒔けば悪い実を
刈り取らなければならない。

ただ、それだけのことなのです。

なしたことは返ってくるというカルマの法則です。

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なしたことは返ってくる
(日本の場合)

なぜ、韓国は日本を敵対視するの?

とても簡単な理由です。

(1)豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役で韓国征伐をしたこと
(2)明治時代(1910年)から35年間、日韓併合をしたこと

この二つの理由で
韓国は日本を敵対視するのです。

いつまで続くのかというと、

日本が韓国に与えたダメージと同じだけ
日本がダメージを受けるまで続きます。

日本が同じだけの
ダメージを受けるまで。

何をしても無駄です。
我慢するだけです。

新たにまた何かをすれば、
同じ事が繰り返されます。

その点は日本の支配下にあった
中国も同じです。

国がなしたことは、その国に返ってくる。
他国に苦しみを与えれば、
苦しみは自国に返ってきます。

蒔いた種は刈り取らなければならない。

悪い種を蒔けば悪い実を
刈り取らなければならない。

ただ、それだけのことなのです。

なしたことは返ってくるというカルマの法則です。

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蒔いた種は刈り取らなければならない(聖書の記載)

新約聖書
ガラテアの信徒への手紙6−7の中で
「人は、自分の蒔いたものを、
また刈り取ることになるのです」
とあります。

種には、良い種と悪い種があります。

良い種を蒔けば、良い実がなります。
悪い種を蒔けば、悪い実がなります。

種を蒔くというのは、
いろいろな行為をすることです。

全ての行為は、畑に種を蒔くように
心の中にデータとして蓄積されます。

そのデータは後に必ず
現象化して実を結びます。

ただし、種が実を結ぶには、
光と栄養分と水が必要なように、

現象化するには、
条件が整うことが必要です。

心の中とはどこなのでしょう?

いろいろ調べても、概念的、比喩的な
説明をしているだけです。

でもよく調べると、そのことが
書いてある本(注1)があります。

その本によれば、私たちの心の中に
データベースのような器官があります。

その器官に、絶対に消えないデータ
として蓄積されるのです。

現象化しない限りは
絶対に消えないデータとして。

注1

たま出版 スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著 木村慧心 訳「魂の科学」第13版 P467 ”17 行を霊視する”

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